『地域社会のつくり方:社会関係資本の醸成に向けた教育学からのアプローチ』という、力作をご紹介します。荻野亮吾氏(佐賀大学准教授)が今年、2022年の1月に勁草書房より出されました。荻野氏は佐賀に移られる前、2020年度まで、立教大学で「生涯学習概論」を教えてくださっていました。このご著書を拝読して、なかなかお目にかかってお話できなくなったことを改めて残念に思ったところです。
同書は、荻野氏が2014年に東京大学の教育学研究科に提出された「社会教育とコミュニティの構築に関する理論的・実証的研究:社会教育行政の再編と社会関係資本の構築課程に着目して」という博士論文に加筆、修正を加えたものということです [1]。新しい本として出版するにふさわしく、『地域社会のつくり方』というタイトルに沿ってストーリーが改めて作られて、博士論文よりは、同じ領域の研究者以外にも読みやすくなっています。これから書評も出てくると思いますが、私は、図書館情報学者として大いに刺激を受けたところがあるので、以下にそのことを書いてみたいと思います。
この本は、タイトルのとおり非常に未来志向のもので、また、地域社会における社会教育の意義を社会関係資本の醸成という観点から解き明かしたものだと思われ、それは議論として説得力があります。その醸成過程は、定量的分析と事例分析を含む定性的な分析によって第4章から第6章において描かれています。が、日本で図書館情報学者をしているアラフィフの私にとっては、その説得力が本書の本体であることは重々承知のうえで、それでも、第3章までの理論的根拠の議論に惹かれました。特に第2章「社会教育学の基本的構造と課題」に強い関心をもちました。それは、図書館情報学が、戦後の日本においては、ひとつには教育学の中に育てられてきた [2] ということと関係があります。(以下、引用部分の一部の文字をボールドにしたのは私です。)
戦後日本における図書館と社会教育の関係
図書館法(1950年4月30日交付)の第一条は次のようになっています。
第一条 この法律は、社会教育法(昭和二十四年法律第二百七号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。
そもそもとして、社会教育法の第九条は次のように図書館について定めています。
第九条 図書館及び博物館は、社会教育のための機関とする。
2 図書館及び博物館に関し必要な事項は、別に法律をもつて定める。
つまり、図書館は社会教育の施設と、現代日本では考えられているわけです [3]。
ですから、その検討も、一つには社会教育との関係でされてきました。例えば東京大学では、教育学部の教育実践・政策学コースのもとに図書館情報学が置かれており、同コースの説明のページには次のようにあります。
教育実践・政策学コースは,教育という現象あるいは作用の本質を「現場」と「制度・政策」の関係を通じてとらえる研究領域です。他のコースが人文・社会・自然科学の個別の方法を重視しているのに対して,本コースは対象に即した現実的なアプローチにより,対象に迫ることを目指しています。ここで「現場」とは,(1)保・幼・小・中・高で展開される教育実践,(2)地域や公民館・図書館・博物館・文化ホールなどの施設で行われる文化活動や社会教育活動,(後略)
同コースは大学院では生涯学習基盤経営コースという名称になっていますが、同コースの説明のページでは、次のように書かれています。
このコースでは、学校教育の終了後あるいは学校教育の外で人が営む様々な活動を、「学習」の視点からとらえ、生涯にわたって人が営む学習活動とそれを支える組織・制度・環境・技術などの「基盤」について研究しています。
コースは、主に社会教育や生涯学習の活動を研究対象とし、また学習の視点から社会をとらえる社会教育学・生涯学習論研究室と、図書館などの活動や人々の「知」の創造と利用形態を扱う図書館情報学研究室という、二つの研究室から構成されています。
同じく教育学部のもとに図書館情報学が置かれる京都大学では、生涯教育学講座が、メディア文化論、社会教育学、図書館情報学で構成されています。教育学の中に、社会教育学の一部として、もしくは社会教育と共に、図書館学が置かれるということは、戦後教育法制における図書館の位置付という意味で、合理性があります [4]。
さて、前説が長くなりましたが、ここで言いたかったのは、主に教育学部で図書館を研究してきた私にとって、社会教育学は親分野と言ってよい分野であり、近接領域であったということです。”学校”図書館を研究しているので、学校教育学も親分野なのですが、究極的にどちらかと問われれば、理論的な影響力は社会教育学が私には大きかったです。(一方で、アメリカの図書館情報学(Library and Information Science)の独立した存在(discipline=学問分野)たらんとする領域とまたその研究者たちからも、大きな影響を私個人は受けてきています。)
社会教育分野の議論の図書館関係者への影響
荻野氏のご著書の特に前半、第3章までで感じたのは、社会教育学の研究者の方たちの理論構築への意欲の強さです。プラグマティックな傾向の強い図書館研究者たちとは異なるレベルでこの指向性があるように思います。しかし実は、日本の図書館関係者は、この社会教育分野の理論構築に向けての議論から、おそらく社会教育の関係者たちに少し遅れて、いつも大変に影響を受けてきていました。
例えば1960年代から1970年代に、社会教育学の論理に関わってどのような議論があったか、荻野氏の整理を以下に引用します(それぞれp. 58,58-59,60,63からの引用)。
この1970年代の住民運動と密着した社会教育学の形成について、小林[文人]は、「最近-ほぼ1970年代以降-の状況として、社会教育を自己教育としてとらえ、その主体たる住民がみずからの要求を政策・行政に反映させていこうとする積極的な動向をみることができる」として、「それはとくに「国民の学習権思想」に立脚して社会教育を権利としてとらえる発想に基礎をおいている」とまとめている(小林1976:232)
小川[利夫]は、社会教育の本質を「社会教育行政」と「国民の自己教育」運動との外材的・内在的矛盾関係にあると見なす。(中略)(小川1964:51)(中略)この議論では、社会教育を、国民(住民)による国家(行政)への「対抗的参加」として措定し、国民の要求を取り込む形で国家(行政)によって保証されていく組織化の過程にある行政的営為として捉えている。(中略)この時期の社会教育学は、行政との「対抗性」を掲げながらも、行政による権利保障を暗黙の前提としてきたと言える。
ここまで取り上げてきた社会教育学の特徴は、行政や企業の意思決定に批判的に関与する「対抗的参加」と、運動としての参加に内在する市民の「主体形成」を結びつける点にある。運動によってなされる「主体形成」は、社会科学・自然科学の学習による「真理」への接近と、運動の過程での市民意識の醸成という2点から構成されていた。
このように、1960~1970年代に形成された主体形成論とは、市民(住民)が学習をつうじて、行政を中心としたシステムの中で「抑圧」されている構造を自覚し、行政への「対抗的参加」によってその構造を変えることを重視するものであった。
繰り返しになりますが、上記の議論は、1960年代から1970年代のものです。このあと、政治学者の松下圭一が1980年代に展開した社会教育の終焉論にまつわる議論があり、また「「コミュニティと教育」の問題は、「参加(参画)」や「共同(協同)」といった文脈で論じられるように(後略)」(苅谷[剛彦]2004:8)なっています(p. 68)。そして、内発的な主体性の形成を議論の中核に置く考え方である「個体論」的アプローチから、「関係論」的アプローチへ切り替える(小熊2012:351)という展開が、荻野氏によって同書で提案されています(p. 77)。しかし、上記の引用箇所のような議論をまったく聞いたことのない、今の日本で40代以上(たぶん)の図書館関係者は皆無ではないでしょうか?1990年代の図書館学でも、まだこの引用箇所のような(つまり社会教育分野では1970年代に熱かった)議論は、よく聞かれていた、これをベースに図書館の理論的根拠を語ることは一般的であったと私は記憶しています。
主体とは、という問いは教育学の、人間や社会を問うときの最も根本的な問いの一つでしょう。それは「個」の中にあると同時に「関係」の中にあるというようなものでしょう。しかし、図書館に関わる議論では、あまりにもさらっとそうしたことを口にしているような気がします。主体的に、主体性を…云々。「的」や「性」を付けると、少し、厳しい議論から逃げられそうです(笑)。荻野氏のこの第2章の整理で、社会教育学では、戦後、そのことをずっと、理論的に議論してきたことがわかります。私は1990年代半ばから社会教育学の近くにいて感じてきたことがいろいろとありましたが、より視野が明るくなったように思いました。
非常に厚みのある議論が展開されている同書について、私もまだまだ書けそうです [5]。しかしまずはいったん、同書が日本の図書館情報学や戦後図書館史研究に多くの示唆を与えてくれるということを指摘して筆をおきます。
(中村百合子)
[1] 同博士論文は東京大学の学術リポジトリから読むことができる。教育学の博士論文の一つの模範といってよいようなものですね。
[2] 教育学の中の図書館情報学については、前に「学校図書館研究のための大学院進学」という文章の中でも書いたので、関心のある方はご覧ください。
[3] 私が今、立教大学で置かれている部局は、「学校・社会教育講座」という名称ですが、これは学校教育と社会教育に関する講座という意味で、「学校教育」として実際には中学・高等学校の教育職員免許状(教員免許状)を取得するための課程が置かれていることを指しており、「社会教育」としては実際には学芸員課程、社会教育主事課程、そして司書課程が置かれていることを指しています。これは戦後の教育法制のもとで置かれた免許と国家資格の付与のための講座だということです。ちなみに、本学では、司書課程の中に、学校図書館司書教諭コース(司書教諭資格取得のため)という学校教育の免許取得課程への登録を前提としたコースもありますが、受講生が多いのはもう一方の、図書館司書コースという司書資格取得のコースです。
[4] ただ、図書館法の位置付が戦後初期の日本での図書館員養成の制度化と大学における図書館関係の講座等の設置にどう影響したかは明白ではありません。このあたりのことは、今も研究の対象であり、何がどう影響したかを簡単には言い切れないところがあります。三浦太郎, 根本彰「占領期日本におけるジャパン・ライブラリースクールの創設」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第41巻, 2001, p. 475-489. は一つ重要な先行研究です。東京大学、京都大学、慶応義塾大学等で、図書館直下、文学部、教育学部と、図書館学の置き場所が検討されていたことがわかります。その決定は、外部によるものではなくて、各大学の中の事情が大きかったようです。
[5] 同書ではR. パットナムの研究が各所で引用されています。そのうちの一つ『アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち、結びつけるのか』、『われらの子ども:米国における機会格差の拡大』、『孤独なボウリング:米国コミュニティの崩壊と再生』は、私が前任校でお世話になった柴内康文氏による名訳です。柴内氏を本学にお呼びして、「図書館とソーシャル・キャピタル」のタイトルでお話していただいたことがあります(記録はこちら)。また、私は、『アメリカの恩寵』について、つたない感想文ですが、個人的なブログに書いたことがあります(アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち,結びつけるのか』;(続)『アメリカの恩寵:宗教は社会をいかに分かち,結びつけるのか』)。
(以下、2020年4月11日に追記)社会教育ではないのですが、成人教育と図書館の発展の関係について、吉田右子氏に教えていただいたことがあったのを思い出しましたので、その時の記録をご紹介しておきます。これは、私が博士論文を出した後に、同じく図書館史で私の前に博士論文を書かれた吉田氏に対話を申し込んで実現していただいたものです。