Editor’s Bookshelf 3『ヒルビリー・エレジー』
08/23/2022
「困難」にいかに向き合うか?
中村百合子です。今学期(2022年春学期)、大学院のゼミの履修生は3名でした。ゼミのテーマは、前年度の秋に、私のもとにいる、一名の修士院生と相談して、大きく、「マイノリティおよび先住民のための教育」に設定していました。結果、このテーマに関心をもった三人の修士院生が集まってくれました。私の院のゼミは毎年、受講生たちがそれぞれに自分の修士論文のテーマと、ゼミのテーマの関連のもとに、探究するテーマを設定し、それぞれに検討・報告する文献を持ち寄る形にしています。今年は、次の三冊を各学生が選択肢+最後に三人の希望で『公共性』という一冊が加わり、計四冊を検討しました。いつの間にか、ゼミのテーマは「被抑圧者」になっていました。
- 大森一輝『アフリカ系アメリカ人という困難:奴隷解放後の黒人知識人と「人種」』彩流社,2014.
- 中島恵『日本の「中国人」社会』日本経済新聞出版,2018(日経プレミアリシーズ).
- パウロ・フレイレ著,三砂ちづる訳『被抑圧者の教育学』亜紀書房,2018(50周年記念版).
- 齋藤純一『公共性』岩波書店,2000(リシーズ 思考のフロンティア).
『日本の「中国人」社会』は新書形式なので、読みやすいですが、中国からの留学生がかなりクリティカルな目線から報告したので、大いに盛りあがりました。フレイレの『被抑圧者の教育学』は私にとってもバイブルと言える一冊ですが、私が院生のころには、1979年出版の、英語からの日本語訳のこの版でみな、学んでおり、2011年と2018年に三砂氏によって、ポルトガル語を翻訳したものが出されていました。この新訳と旧訳を照らし合わせ、翻訳書で学ぶという課題に思いっきりぶつかり、挫折感をみなで抱きながら、少しずつ議論を進めました。この一冊については、また改めて、大学院生たちと一緒に読みたいなと強く思っています。
さて、今回読んだ中で、私にとってとりわけ新鮮だったのが、『アフリカ系アメリカ人という困難』という一冊でした。出版当時、『日経新聞』にも、『アメリカ太平洋研究』にも、『西洋史学』にも、『アメリカ史評論』にも、書評が出ていましたが、不勉強な私は、学生に教えてもらって今回、知りまして、これまで読んでいませんでした。
同書の、8人のアフリカ系アメリカ人の歴史的な人物を取りあげて、各人がどのように「アフリカ系アメリカ人という困難」に向き合ったか、その活動や思想を分析するという研究手法は、私が少しずつ進めてきている、司書教諭や司書の方たちのライフストーリーを書き残すという作業 [注1]と動機を一にしていると思いました。日本の学校図書館で働く人たちは、たいてい職場に一人なので、周りの人たちに自分の仕事を理解してもらい、正当に評価してもらうために、工夫をする必要があり、そのことから一人静かに努力しないとなりません。それは、アフリカ系アメリカ人の方たちがマジョリティの白人たちと同じように認められていくためにしてきた工夫や努力とはもちろん異なりますし、日々何を思い、どのようにして周囲の理解を求めることとしてふるまうか、さまざまな「困難」へのアプローチはほんとうに一人一人、異なります。「困難」を見つめることを避け、解消に一切関心をもたない人も多いです。でも、多かれ少なかれ、みな、自分が所属するコミュニティでより快適に生き、正当に働きを認められるように、工夫し、努力するものですよね。そのライフストーリーを書き残す作業を、私としてはしているつもりです。時代や置かれた場所の制限の中で、何をどのように求めたかをみていくと、学校図書館専門職とは何かがみえてくるような気がするのです。そして、こうしたライフストーリーの記録が、読み手・聞き手に自らの生き方を考えさせてくれるという点は共通していると思います。
所属を変える苦しみ
この授業に先だった春休みに私は、『ホワイト・フラジリティ:私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』(ロビン・ディアンジェロ著,上田勢子訳,明石書店,2021)を読んでいました。この一冊もいろいろなところで取りあげられていて、大変、広く読まれている一冊ですね~(Editor’s Bookshelf4として次に取りあげようと思っています)。この本と合わせて、トランプ大統領が誕生した2016年に出版されてベストセラーとなり、2020年にはNetflixで映画化もされた、『ヒルビリー・エレジー:アメリカの反映から取り残された白人たち』(J. D. ヴァンス著,関根光宏・山田文訳,光文社,2017)と、同じころに出された類似のテーマの本『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人びと:世界に吹き荒れるポピュリズムを支える”真・中間層”の実体』(ジョーン・C・ウィリアムズ著,山田美明,井上大剛訳,集英社,2017)も読んでみました。アメリカはこの秋、中間選挙で、トランプ前大統領や彼を支持している白人の人たちがしょっちゅう日本のマスメディアでも話題にされていますし、そのことを改めて考えてみたくなったのです。
『ヒルビリー・エレジー』の筆者のJ.D.ヴァンス氏は、ヒルビリー(hillbilly)つまりアパラチア山脈地方の人(に向けられた蔑称)のアイデンティティをもって育ち、海兵隊、オハイオ州立大学を経て、イエール大学の法科大学院を出ました(この秋、11月の中間選挙でオハイオ州から共和党候補者として立候補しています)。エレジー(elegy)つまり哀歌というタイトルのとおり、同書では、経済的に不安定で、アルコールや薬物への依存症や暴力などが身近に日常的に存在するコミュニティにあって、できる限りの、いや、惜しみない愛情を注いでくれ、希望を見せようとしてくれる大人たち、そして努力する著者が描かれています。そのことを著者は冒頭で、「アパラチアに暮らすヒルビリーの家族の目を通して見た、社会的機会と社会的地位上昇の歴史を描いている」(p.17)と説明しています。まさにそうです。
この本の中では、図書館が三か所(p.105,111,350)で言及されていて、最初の2カ所は共に母親が公共図書館の利用を手引きしてくれる話で、最後の一か所は大学院生時代に「自分のなかの怪物」と闘うために、図書館に自ら行って調べるという話です。私の目には、図書館も著者の社会的地位上昇やいわゆる成長に貢献している、希望を図書館が、図書館の利用を手引きしてくれた母親が示してくれたという、とってもいい話にもちろん見えます。そうなのだけれど、ここで私が同書の読後感として書きたいのはそのことというよりも、そうした社会的地位上昇という所属グループを移動するその過程においてだけでなく、いわゆるエリート、法科大学院の卒業生という高級専門職の一員になった後も、著者が自らが育ったコミュニティで支配的な文化との乖離から葛藤し続け、ある意味で苦しみ続けているということの衝撃です。あっけらかんと、移れてよかったという話ではない。彼が描いたもう一つの「哀愁」が、彼の感性の豊かさを示しているように思われ、哀しいけれど、いいなあと思いました。彼が政治家として、ヒルビリーのアイデンティティをいい形で活かしてくれたらと思います。
同じ白人と言っても、田舎の小さな町に留まり安定した職に就くことが難しい状況から抜け出せないグループと、高等教育に進み、イエールのようないわゆる名門の法科大学院を出たグループとの間に大変な文化の違いがあり、互いに理解することが困難で、時と場合、人によっては、理解できないことから敵意のような感情すらもつという [注2]、そういう状況になっているという、その問題の深刻さは重大だと思います。少し話はズレますが、メディアバイアスチャートがアメリカでは複数、作られています(Ad Fontes Media社によるもの;AllSides社によるもの)。それぞれに熱心な読者がいるとすると、インターネット上のフィルターバブル同様、マスメディアによってもバブルの中に人びとは孤立していっているわけですね。そして、『ヒルビリー・エレジー』に描かれているように、日常の所属するコミュニティ(家庭,親族,学校等)における日常会話の中でも、人はある種の偏見を日々強化していく。『アフリカ系アメリカ人という困難』でも、同種の動きが描かれています。そして、そのアフリカ系アメリカ人のコミュニティから抜け出そうとしたり、そのコミュニティを変革しようとしたりする8人が、それぞれに正しいと思う戦略で、奮闘していくわけですが……白人の間にも、アフリカ系アメリカ人の間にも、抑圧的環境から少しだけ抜け出したのかもしれない専門職らのグループと、専門職らのグループから見ると被抑圧者に見える労働者グループという二つのグループ間の緊張関係という構造があるのだと思いました。
「文化」の乖離
『ホワイト・ワーキング・クラス』では繰り返し、白人の労働者たちと専門職のエリートの文化が次のように対照されて示されます。腑に落ちることがいっぱい![注3]
もちろん専門職のエリートも勤勉さを重んじている。だが意味が違う。ワーキング・クラスにとって勤勉さとは、自分を厳しく律し、「反抗的な態度」を取らない(権威に従う)よう自分の気持ちを抑え、好きでもない単調な仕事を40年間続けることだ。一方、エリートにとって勤勉さとは、自己実現のための手段である。エリートは仕事で「対立」しても、新規事業を立ち上げ、それを成功に導けばいい。だがワーキング・クラスが仕事で対立すれば、職を失う。(p.40)
ワーキング・クラスからすれば、専門職は常にあこがれの対象というわけではなく、その能力を疑いの目で見ている場合が多い。管理職のことは、「何をどうすべきかまるで知らないくせに、人にどう仕事をさせるべきかについてはいろいろと知っている大学出のガキ」としか考えていない。バーバラ・エーレンライクは1989年の著書の中でこう回想している。「ワーキング・クラスだった父は、『医者』と言うときには必ずその前に『やぶ』をつけていた。弁護士は『悪徳弁護士』で、(中略)教授は例外なく『にせ教授』だった」。社会学者のアネット・ラローも、医師など医療の専門家への不信感を指摘している。またワーキング・クラスの親は、子供の教師に反感を抱き、こちらを見下していてまるで役に立たないと考えているという。教職員組合を攻撃する保守派をワーキング・クラスが支持する理由は、そこにもあるのだろう。(p.48)
伝統的な家族的価値観に重きを置く態度もまた、専門職階級との対立を生み出す原因となる。エリートは、自分が洗練されていることを示すために、アバンギャルド(前衛的)な性的傾向、自己実現、家族形態に寛容な態度を示す。アバギャルドは、19世紀初めに始まった、「主に文化的な領域で、規範や体制として受け入れられてきたものの境界を押し広げる」芸術運動である。この、当時のヨーロッパの芸術家の間で始まった「慣習への挑戦」が、21世紀アメリカのエリートの文化世界に受け継がれている。彼らエリートは”小市民”とは違い、アバンギャルドな性的傾向を受け入れることを誇りとする。(後略)(p.59-60)
ワーキング・クラスの男性は、こうした仕事へのこだわりに反感を覚える。あるセールスマンは、あまりに働きすぎる人びとを「何も見えていない」と非難する。「人生をすっかり見失っている。(中略)取りつかれたように意欲的な人というのは、自分が目指している地点以外、何も見えていない」。ワーキング・クラスの男性に言わせれば、仕事第一主義は単なる自己陶酔に過ぎない。ある電気技師は言う。「あいつらは自信家で、自分のことだけにかまけ、ほかの人のことを気にかけない。(中略)いつも自分、自分、自分だ。おれはそんな人間じゃない。だからあいつらのことを好きになれないんだろう」(p.67-68)
大学という、アメリカの中でも特殊な(メディアバイアスチャート的に言えばどっぷりと左側に位置する)コミュニティの人たちとばかり交流している私には、こうした本を通してしか、そのコミュニティの外の人たちの文化にほとんど出会言えません。正直に言うと、本で読んでも、実はわかっていないだろうと思います。むしろ、本を通して、わかった気になったり、偏見をもったり、悪影響を受けているという面が大きいような気がします。国内であっても、例えば、誰が、どのような思いで、自分が投票していない政党に投票しているのか、なんらかの統計データを見せられても、私はわかった気がしたことはありません。自分のこともですが、自分以外の人(個人・集団)を理解することはほんとうに難しい… [注4]
それでも、世界のあちらこちらのあらゆるコミュニティにどっぷり浸かって、その人たちを知って、ということは人生は短くて叶わないわけで、やっぱり本を通してでいいから知りたいなと思い、読んでしまう…悲しい性(さが)であります。本を読んでいる時間で、目の前の人やコミュニティともっと向き合いましょうというアドバイスがどこからか聞こえてきそうです。
[注1] Here Comes Everybody編集委員会『Here Comes Everybody : 足立正治の個人史を通して考える教育的人間関係と学校図書館の可能性』中村百合子,2011.;『私の学校図書館半生記:司書として、司書教諭として』編集委員会編『私の学校図書館半生記:司書として、司書教諭として』中村百合子,2013.;「子どもの読書活動と人材育成に関する調査研究」【地域・学校ワーキンググループ】報告書[付録]「読書教育専門職のライフヒストリーの聞き取り調査」(脇谷邦子氏(元・大阪府立図書館司書),宅間紘一氏(元・関西学院高等部読書科教諭兼司書教諭))。
[注2] SEKAI NO OWAEIのプレゼントという曲の歌詞を思い出しながら、ここを書いてみた。
[注3] 『ホワイト・ワーキング・クラス』中には、司書が一か所だけ、次のように、言及されているので、いちおう書いておく。「2006年、ニューヨーク・タイムズのコラムニスト、トーマス・エッゾールは、民主党の支持者を大きく二つに分類した。一つは社会的少数者、労働組合員、公務員、貧困層から構成される『下層支持者』たち。もう一つは研究者、司書、心理学者、人事担当の管理職、編集者などを含む「上層支持者」―つまり、しばしばビジネス志向のエリートと対置される存在である「改革志向のエリート」たちである。エッゾールは以下のように述べている。「高い教育を受け、自由主義の傾向が強く、しかも比較的裕福な改革志向のエリートは、民主党支持者のなかで大多数を占めるわけではない(40パーセント)。しかし、活発に政治活動を行う彼らが、実質的に民主党の政策の方向性を決定している」。こうした状況は2006年の時点だけでなく、今でも変わっていない。」(p.211-212) ここに書かれていることは、私が知っているアメリカのライブラリアンたちの政治志向や政治行動と一致しています。
[注4] 同じくSEKAI NO OWARIの最近のヒット曲Habitも、図書館情報学や社会学などなど…近代の学問に対する痛烈批判にも聞こえて、私はとても好きだ。この歌を、「燃えるゴミとか燃えないゴミとかとか…君らは分類しないとどうにも落ち着かない」と言いながら、ゴミの分類をしている人を見かけました…日本(地域によるのでしょうが)のゴミ分類って異様に細かくない?
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